だから、ダイスケ - 松本大輔のホームページ

元衆議院議員 松本大輔のホームページ

原爆の日に

2002年に活動を開始して以来、この日に朝からこんなに雨が降ったことは記憶にありません。静かに鎮魂の祈りを捧げました。

夕方の地元のテレビでは広島の復興の様子を描いた未公開映画が発見されたとの特集を報じていました。被爆者の平均年齢が80才になろうとするなか、被爆体験や復興の記憶を風化させないことの重要性は年をおうごとに切実なものになりつつあります。ぜひ証言ビデオや今回の復興の映像をアーカイブとして集め、ネットワーク配信も含めて広く公開してほしいものだと思います。

以前ブログでもご紹介した通り、今年は3月に改めて県被団協坪井理事長や田邊非核特使といった方々から被爆体験をお伺いしたことは、広島の思いを再確認する大変貴重な機会になりました。

被団協の坪井理事長は20の時に被爆をされています。8月6日の原爆投下の後、おそらく数時間後だと思うが(10時過ぎに)軽トラックがやってきた。軍人がやってきて、若い男性はその軽トラにのせ救助されたが、女性や高齢者、こどもは助けてもらえなかった。トラックに乗せてもらえなかった。

自分は20の若い男性だからトラックに乗せ救助された。それは若い男性なら再び戦地に送ることができる戦力になると考えたからではないかとおっしゃっていました。

自分が救助された後、女の子がその軽トラックにのせてほしいとやってきた、しかし軍はそれを許さなかった。女の子は助けてもらえず、泣き叫びながら炎の燃え盛る方向に走って行ってしまった。その子を助けてやりたくても、重傷を負った自分にもどうすることもできず、それを見守るしかなかった。

そんなつらい経験を話してくださいました。また、非核特使の田邊さんからは、原爆投下の翌日、福屋デパートのあたりで亡くなったお母さんの乳を吸い続ける赤ちゃんを見た、自分はまだ7歳だったけれども、この赤ちゃんはこのあとどれだけ生きられるのだろうかと子供ながらに思ったというお話をしてくださいました。

一人の父親としても、お二人の被爆体験は胸に迫るものがありました。

私は広島生まれの広島育ちです。祖母は被爆者でもありました。私が小学校1年のとき、祖母は60才で癌でなくなったため、残念ながら直接原爆の話を祖母から聞くことはできませんでしたが、当然のようにはだしのゲンも読みましたし、いわゆる平和教育もありました、資料館にも何度も訪れました。

それでも、大人となり、家族を持ち、親となって改めて被爆者の方から直接被爆体験を伺うということは、子供のときとは当然ながらまったくその意味合いが違うように思います。

夫としての目線、親としての目線、自らも親となり改めて自分の両親を思いやる目線。成長するというのは共感の幅が広がるということなのかもしれません。

私は以前にも東京の被団協の方から、ご自身の被爆体験を伺ったことがあります。原爆投下の後、家がつぶれ母親が屋根との間に挟まれたまま逃げられなくなってしまった。

炎も迫る中、母親は自分に逃げろと言った、自分はまだ小さかったし、怖くなって逃げた。翌日行ってみると亡くなったお母さんと対面することになってしまった。

淡々と語られる中にも、いったいぜんたいこの筆舌に尽くしがたい体験をされながら、どういう思いで60年以上を過ごしてこられたのか、そのつらさは想像するに余りあると感じました。

やはり実体験としての生のお声ほど、核兵器の非人道性を雄弁に伝えうる手段は他にないし、その意味で被爆体験の継承は、小中学生への教育ということもさることながら、すでに実社会に出た我々大人にこそ重要ではないだろうかと、被爆者の平均年齢が80才に近くなった今、被爆体験を風化させることなく、後世に引き継いでいくことの重要性を改めて反芻しているところです。

雨の中の式典は43年ぶり、つまり私が生まれた翌日の式典以来だったようです。この大雨で大竹では崖崩れや浸水がおこっています。被害にあわれた皆さまに心からのお見舞いを申し上げますとともに、市議、県議の先生と連携を密にしながら、二次災害の防止と早期の復旧に万全を期して参りたいと存じます。